今朝、交差点でお散歩中の犬と飼い主に目が止まりました。
犬はしきりにある場所の匂いを気にしてその場を動こうとしません。
飼い主はグイッとリードを引っ張って歩き出そうとしますが、犬は首を引っ張られながらも匂いを嗅いでいて、
飼い主は仕方なくその犬を見つめて待っています。
犬は言葉を話さないけれど、はっきりと自分の意志を示しています。飼い主は犬の意志を受け入れています。
犬も人間も生命が宿るものとしてみれば同じだなぁとそれを見ながら思っていました。
人間には言葉があり理性があるので犬よりはスペックが複雑、しかしそれは人間という生物の在り様で、良いも悪いも上も下もない。
インドの仏教の考え方では動物までは生命があるから動物を食べてはならず、植物にそれはないから食べてオーケー、
そういうわけで仏教者はベジタリアンで、動物を食べませんが植物は食べるのだそうです。
日本には草木にまで生命があり仏性があると考える。まして動物の成仏は当然。
インドという土地や歴史・気候が作った考え方と日本の風土が作った考え方。
あるものの見方や考え方は、その歴史風土に合ったカタチで長い間に作られ、ある点から見ればそれは整合性があるけれど絶対普遍ではない。
これまで洋の東西を問わず人間の本質について書かかれて来た本や教えをあれこれ読む時、
私たちはそのままそれを読んで鵜呑みにするとかその通りにする、そうなる事を目指すなんてことはできません。
青空禅の伊東先生がおっしゃっていましたが、時代も環境も違うから同じようにはならないし、出来ない。
絶対普遍は、言葉でというより、エッセンスで伝わる。
私たちに出来ることは、そのエッセンスをつかむこと、汲み取ること。
それは理解というより、キャッチするセンス。
書かれたことばを理解するのではなく、言葉にとらわれずに感じ取るセンス。
人と人の出会いはありがたいもので、いろいろな可能性に気づくことが出来ます。
例えば誰かを好きなったら、最初はその人のことをまるごと好きになって夢中になっているけれど、
段々と現実的になって少しずつ相手への批判が生まれます。
相手への要求が高まって不平不満もいっぱい、自分のことは棚に上げて(苦笑)。
それでも好きになったり嫌いになったりしながら人間はなんとか関係を維持していきます。
そんなシーソーみたいな繰り返し。
その繰り返しに、もうウンザリと思うこともあるけれど、
肉体を持った人間であればこそのシーソーであって、けっして悪いばかりではありません。
人間って愚かだなぁとか、どうしようもないなぁとか、思うことしばしばあれど、
人間はそれでも素晴らしいという希望、承認、愛情はいつもどこかにあるのです。
これまたシーソー。シーソーがあればこそ可能性に気づける。
繰り返しているうちにいつの間にかシーソーの真ん中で微笑んでいたりして。
自分の中に初めて愛が生まれた時のあの感じを思い出すと、そんな愛が自分にあること自体に感動してしまいます。
好きになったり嫌いになったり、勝ったり負けたり、怒ったり笑ったり…
それ自体が悪いのではなく、その見方や感情に固定してとらわれてしまわなければ良いだけ。
どちらでもいいではなく自分の意見を持て!と教育されて来たので、
自分の見方や考え方を主張することが良いことだと思って来ましたが、そのためにずいぶん余計なエネルギーを費やして来ました。
でも、本当はどちらでも良い、ありのままで良い。好きになったら好きになったのでよく、嫌いになったら嫌いになったのでよい。
良寛さんもそう言っていたものね。
昨日、思考いっぱい派の私にも、ちょっといいことがありました。
長いこと繰り返し頭を抱えて来た問題に対して、
それでもあれほど素晴らしい時間を過ごせたことに本当に感謝だわと、気がついたら勝手にそう思っていたのです。
ふふふん、シーソーがちゃんと動いている。
大きな普遍の愛と同じように、感謝のような身の回りのささやかな愛情を大切にしたいです。
