母から繋がる大海のなかで

sarasvathi

テレビで戦時中の日本を舞台にした映画の紹介をしていて、当時のラジオ放送が流れるのを聴いた母が、

「私もこのラジオ放送を聴いたわ」と言っていました。

普段はすっかり忘れているのですが、こういう時、この母は戦争体験があって私とは全く違う娘時代を送ったのだなと改めて感じます。

 

神保町で生まれ育った母は、今の九段会館は軍人会館だったとか、

宮城(きゅうじょう・皇居のこと)の横を通って幼稚園に通ったとか、そんなことをよく話します。

そして、母の母の実家が広島にあったので広島に疎開していて、原爆投下の後すぐ、救護のために市内に入ったこと、

その時の様子を淡々と話すのですが、想像すると大変な体験です。

 

仲良しから、もう読まないからともらった吉本隆明さんの本を読んでいて、

戦争を知らない世代の人たちは、いかにも日本だけが侵略戦争をやって、向こうは正義の戦争だったなんて信じている人も多いですが、戦争だから双方で殺し合いをしているわけです。前の戦争で負けた国ということで、日本人は恐縮していますが、そんなことで恐縮することはないと思います。でも、だからといって、きちんと戦争ができるように自衛隊を自衛軍にする、憲法九条を見直すといったことに力を入れるのはやめにしろと言いたいのです。 どうして今の日本人は、戦争放棄といういい憲法をもっているのにもかかわらず、核拡散防止条約をちょっと変えてもらいたいと言うことすら躊躇しているのか。日本人はもともとおとなしいということはもちろんあると思いますが、内心は、日本が世界で孤立するのが怖いのだと思うのです。それがいまの世代の人に感じる一番の弱点だと思います。それは何が弱点かというと、逆説的な言い方をすれば、戦争を体験しなかった人の弱点だと思います。   「真贋」吉本隆明著より抜粋

 

というところがありましたが、確かに体験のないことには強い確信を持てない。理屈に走ってしまうこともあります。

母を見ていると、理屈抜きに生きることに強く逞しいと思います。

 

人間はすべてを経験できるわけではなく、その人がどの時代にどんな条件のもとで生まれ育ち生きていくのか、

それは私たちの意思が及ぶところではありません。

とするとすべてのひとは、ただ真剣に自分の人生を生きているとしか言いようがないし、そうとしか思えませんよね。

 

私がここまでとにかく生きて来たこと、今 「 真理の探究 」 とプロトマニアがあるのも、母が生きて父と出会ったから!

さまざまな条件が理由はなくとにかくそうなって、タペストリーの綾織のように重なってたまたまここにこうして在る存在のすがた。

そうして考えたらこの私が自分でやったことなど一つとしてないのかもしれない。

 

私にとって 「私とは本当は何者か?」 にまつわるあれこれをやっていくことは、

本当の意味で 「 謙虚 」 になること、

それ以外の何ものでもないのだろう、そんな気がします。