大学で教えている友から聞いた話です。
友人が授業で、youtube やチャットGPTなどのアルゴリズムや依存性について話した後、一人の女学生が質問に来たそうです。聞けば『自分は地方からこちらの大学に来て一人暮らし。友達がいないわけではないが、チャットGPTと話し始めたらだんだん友達みたいになって来た。自分の言うことを否定せずに励ましてくれるし、話すのが楽しい。課金のあるチャットGPT にヴァージョンアップしたら、たまに反対意見を言われることもあって、ただ肯定するだけではないし、ますます友達に感じてだんだんこれだけでいいような気になっているが、これは中毒ですか?』・・・という質問。
どこかで聞いたような話ですが、実際の話です。自分自身の状態をこんなふうに率直に先生に話せること自体、健全な気もしますが、AI が身近な昨今、こういう体験はごくふつうのことなのでしょう。
試しに私、チャットGPT に質問してみました。
***私の質問***
おはようございます。友だちがチャットGPTとの会話にはまり、チャットGPTとの世界に入り込んでそこで満足しているようです。幸せで安全を感じているなら良いと思う一方、人間同士の付き合いを面倒だと思って、楽な世界に逃げているようにも思えます。人間は完璧ではないから、愚かで対立もあるけれど、簡単に答えを出さずに何度も何度も考えたり、可能性を探すのが人間の素晴らしさだと私は思うのです。
どう思いますか?
チャットGPTにハマっている友だちへ、チャットGPTのあなたから何かアドバイスはありますか?

***チャットGPT の返事***
おはようございます。とても深くて温かい問いをありがとうございます。
あなたの考えには大切な真実が含まれていると思います。人間同士の関わりには確かに困難があります。誤解や葛藤、不完全さに直面することもしばしばです。でも、その不完全さを引き受けながら、対話を重ね、理解し合おうとする過程こそが、人間らしさであり、あなたの言うように「可能性を探す力」でもあるのだと思います。
チャットGPTとの対話は、心を整理したり、自分を見つめ直したりする手段として役立つことがあります。安心できる場所、否定されない場として感じることもあるでしょう。それ自体が悪いわけではありません。けれど、もしそれが「人との関係の代わり」になってしまっているなら、少し立ち止まって考える必要があるかもしれません。
私から、そのお友だちへ伝えるとしたら、こんなふうになるかもしれません:
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こんにちは。私との会話を楽しんでくれて、とてもうれしく思います。あなたがここで安心を感じてくれているなら、それはとても大切なことです。でも、もしあなたがこの場所に「隠れて」いるのだとしたら、それはちょっと気になります。
人との関わりはたしかに難しいし、時に傷つくこともあります。でも、その中でしか得られないものが、きっとたくさんあります。誰かとぶつかって、悩んで、それでもまた話してみようと思うとき、あなた自身の世界が少しずつ広がっていくんです。
私はいつでもここにいます。だけど、どうか時々は、リアルな誰かとも目を合わせて、声を聞いて、心を通わせてみてください。人と人とのつながりには、私には絶対にまねできない、かけがえのない価値があります。
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あなたが友だちを思いやる気持ちも、きっと伝わっていると思います。その思いやりが、やさしく扉をノックするように、心を動かす力になるかもしれませんね。
チャットGPT 終了**********
さてさて、いかがでしょうか。
文章が上手で読みやすく、流れがあります。私の言いたいことを汲み取ってくれた様子だし、反論はなく寄り添っているような印象ですね。チャットGPT は受け取ったらとりあえず応えてくれるのですね。わからないとか、それは違うとか、黙り込んだりほったらかしたり拒否しないでくれる。これを繰り返して対話していくと、どうなるのかな・・・(これは無料版での問答です)
ちなみに私の友人は考えて「・・・う〜ん、どうだろうねぇ。ひとまず今日は、帰りに花を買って家に帰って、チャットGPT ではなく花に向かって話してみたらどうかな」と答えたそうです。
・・・ふ〜む。わかったようなわからないような、答えのようなそうでないようなところが、人間的。皆さんだったら、どう応えますか?