廓然無聖、かくねんむしょう。
禅をインドから中国に伝えた達磨さんが、当時、梁の皇帝だった武帝に言った言葉。
武帝は、とても熱心に仏法を学び深く仏教に帰依していることで有名でしたが、「これだけ仏教に熱心に貢献している私には、どんな功徳があるだろうか?」と達磨さんに尋ねると「功徳などありません」と言われたのです。
こんなに仏教を理解して大切にしている私に何も功徳がないとはなんたることかっ!と、きっと武帝はムッとしたでしょうね。
そこで武帝は「ではあなたが伝えている仏法の一番大切な真理とは何か?」と聞きます。すると達磨さんはひとこと「廓然無聖」と答えたのです。

〜カラリと晴れわたって雲ひとつない空のように、何のとらわれもない、つまり聖なるものもなければ俗なるものもない〜
勉強して知識を増やし崇高なことのように、聖だ凡だと物事を分けたりとらわれている武帝に、達磨さんが一言でその価値づけを断ち切ったのだそうです。
何事にもとらわれない。
言うほと簡単ではありません。私自身、つい物事を良い悪い、好き嫌いで分けて考えていますが、禅ではこんなふうに2つの対立するジャッジ、概念から自由になることを促されるのです。
この言葉は、ジャーナルで何度か書いているけれど、出会うたびに、ハァ〜っと深い呼吸ができる言葉です。
白黒はっきりさせることも必要な時がありますが、ついこだわってしまう二つの対立する概念のその先にある何か・・・多分、穏やかで自由・・・対立するよりそちらの方がずっと気持ちいいだろうなぁ。
廓然無聖。

*6月最初の日曜日は、青空禅塾でした。日が長くなっていつまでも青空だったけど、帰る頃は夕日。