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この詩は、わたしたちの愛にたいする態度を、見事に、完璧に、
そして正直に、表現していると思いませんか。
相手を見て、心の平和を乱されるのではないかと、即座に身構えるところ。
相手が、何のために自分の人生に現れたのか、よく見ようともしないで心の扉に鍵をかけ、
相手を締め出してしまうところ。
そして、もし運が良ければ、遅すぎなければ、彼の声から大事な、なつかしい記憶がよみがえり、
彼が、何を自分にもたらしてくれるのかに気づくのです。
でも、私たちはたいてい遅すぎます。気がつく前に、相手からうんと遠くに離れています。
自分の家にひとり逃げ帰り、鍵をかけ、ほっと ” 安心 ” するのです。
安心というのはさびしいものなのだな、と心のどこかで感じつつ。
けれどもまた、愛というものは、へこたれないものらしく、
どれだけ逃げたつもりになっても、きっと追いかけてきます。
いつも、すぐそこにいます。たぶん、姿かたちを変えて。
それでわたしたちが降参するかというと、こちらも負けずに頑固なもので、また逃げる。
へとへとになりながら、逃げ続けるのです。
ひとり、またひとりと、姿が視界に入るたびに、怯え、嫌い、背を向ける、
ということを繰り返します。
怯えているわけじゃない、と、私たちは主張します。
相手に心を開くわけにはいかない正しい理由がある、と言います。
彼はちっとも正直ではないの。
彼のだらしないところが我慢できないの。
お父さんはとても厳しくて、私をけっして優秀とは認めてくれなかった。
お母さんはアルコール依存症で、娘のわたしを、早くから見捨てていた。
あの子はブログに私の悪口を書いた。
そうです。わたしたちは親子の間でも、相手を締め出すことをします。
締め出していたのは自分だったと、親が亡くなったあとにやっと気づいたりします。
親が本当に自分に望んでいたこと。親がじつはしっかり見ていてくれた本当の自分。
それらのことにはっと目が覚め、親にわたしのことがわかるわけがない、
親の望みと私の夢は相容れない、などとうそぶいていた自分に、
頭を垂れ、深く恥じ入り、「もう取り返しがつかない」と、悔恨の念に苛まれるのです。
わたしたちは、数え切れないほどの理由を片っ端から挙げ、人生で出会う人々、
とくに親しく出会う人々を断罪し、自分の心から、その人を閉め出すことをし続けます。
それほどまで、愛を怖がっているのでしょうか。まるで愛を受け入れると、
自分の人生がめちゃくちゃになるかのような恐怖心をもって。
めちゃくちゃになるとは言わないまでも、何かを犠牲にし、何かをあきらめ、
何かを我慢しなければならなくなると決めつけて。
たしかに怖いのです。
愛は、まるで暴力のように見えます。
それが示される方法は、たいてい「わたしの欲しいと思っているやり方じゃない」からです。
まるで愛よりも、自分の流儀を貫くほうが、自分のやり方を認めさせ、
それに屈服させることのほうが大事なのだと言いたいかのようです。
いいえ。本当は、愛を怖がって、愛を締め出すために、変わりになるもの、
我が身の勝利を求めるのでしょう。
しかし、勇気を持って自分の恐れに対峙し、立ち止まり、
相手が差し伸べる手を感謝を込めてとるなら、わたしたちはその相手の声を聞きます。
あなたは、愛されています。 守られています。 安全です。
だから、もう、恐怖にかられて、闘いに挑み、勝利する必要なんてないのですよ。
愛される者、それがあなたです。
… つづく
Guide to A Course in Miracles Workbook より
