なぜそんな言葉を使い始めたのか、どこで耳にしたのか『 真理の探求 』を若い頃に始めた私は、
いろいろなことを頭の中で考えました。
考えるのは良いことだ、と当時は思っていて、何でもバリバリ考えていました。
親しい友人には、ないアタマで考えるな!と言われましたが、
自分が感じる感覚より考えた方が確かな気がして、ふと感じることを即思考で置き換えていました。
今なら、うへっ、うざったい!というタイプのオネエチャンだったと思います。赤面。
それがいつの日からか「真理の探究」となり、
結局、考えてもどうしようもない、何も解決しない、堂々巡り、ただ苦しいだけ。
考えてもムダ、こりゃダメだ、という結論になるのですが、
何をしても最終的には自分が考え、感じているのだから、
私はこの肉体の中に閉じ込められていて、「私自身」からは逃れられない、
ここからしか世界を見ることはできないんだ、と思っていました。
あぁ、なんて不自由なんだろう!!! と。
でも、アートやいろいろな試行錯誤の末に知ったのは、私は肉体でもこころでも魂でもない、というものでした。
それはこれまでもいろいろな人が言ったり、書いたりしてきたことですが、
私には私のタイミングで、その智慧との出会いがあったのです。
それが、禅の教えであり、クリシュナ・ムルティやラマナ・マハルシ、パパジ、ガンガジなどの覚者であり、
それを実感したい欲望にかられての実践編、青空禅フォーラムであったりします。
インターネットは情報を集めるにはとても便利なツールで、このブログと同じ wordpress で偶然知った、
溝口あゆかさんという方のブログも、晴天のようにそれに関して言葉でわかりやすく伝えています。
( 真実は、すべてはジョーク?2012.7.4 がっつり目覚めトーク 2013.2.21 など )
あちこちから見てみると、真理は特別な人たちだけが知るものではなく、選ばれた人のためにあるのでもなく、
もっとずっとリラックスしたものだということがよくわかりました。
それはわたしの深いところにあった緊張を緩めてくれました。
プロトマニアでは、本質とは何か?という言い方をしていますが、
本質でも真理でも、神、愛、真我、青空 … どんな言葉でもよいのです。
これらの言葉が指し示すすべての源に出会えば、まずは知識だけでもそれに出会えば、
この現実の受け止め方にゆとりが生まれて、少し気楽になれるのではないかと思います。
そして毎日のバランスをうまく取れるようになるのではないかと思います。
私はわかっちゃったひとではないので、ここで書くことは途中の備忘録であり、
その時の私のベスト、つまり限界でもあります。
最近、仕事中や日々の暮らしの中で、源に繋がるごっこをしています(笑)
これまでの、ちからいっぱい真剣なわたし、から、こうさんしてしまおう、にシフトチェンジして。
もし、悟りや目覚めや真理ということに興味があるという方は、青空禅フォーラムをぜひのぞいてみて下さいね。
いつでもドアを開いてお待ちしています。
