新聞にあるお医者が「老衰認める平穏死 最期の迎え方」というこんな記事を書いていました。
日本は世界一の長寿国であり、医療技術の発達によってあらゆる延命治療が開発され、
自分が納得できる最期の迎え方を選べるはずが、現状は?…
「老衰を医療で止めることはできない。人生の最期にはしばしば、医療を加減した方が静かに逝ける。
必要な水分や栄養の量はどんどん減り、入れない方がむしろ穏やかに過ごせる。入れないから死ぬのではなく、
死ぬから要らないのだ。私は、そうした命の閉じ方を「平穏死」と名付けた。」(抜粋)
しかし、医者が病人に適切な措置を行わずに死なせれば罪に問われる。
家族は、延ばせる命なら延ばしてやりたい、どんな姿でも生きていてほしいという心情で延命措置を選ぶ。
しかし老衰を迎えた本人にとっては、何が最善なのか?
そして介護支援体制においても、施設に預かってもらっているのは何が起きてもおかしくない高齢者であることは忘れられ、
何かが起これば家族はクレームをつけ、責任を追及する。
これらのことが責任回避、少しでも命が危なくなればとにかく病院へ送る、という道筋を作ってしまう。
「平穏死という言葉の意味は、単なる延命治療が意味をなさないなら、それをしなくても責任を問われないという訴えでもある。
今こそ国を挙げて老衰という自然の摂理を認め、人のための科学という医学の原点に戻るべきだ。
「自然」とは「自ら然り」。あるように生きて最期を迎える。そして「これでよかった」と思いたい。」(抜粋)
世の中はいろいろなことが進歩して便利になったり、可能性が大きく広がる分、
複雑になって、遠回りをしたり、本末転倒が生まれたり、
そんなはずじゃなかったのに…なんて悲しい結末もあり、なかなかうまくいかないものなのでしょうか。
この世界は二極でできているので、生と死、善と悪、光と闇、愛と憎しみ…
などなどの間を人間は怖れや怒りや喜びや感謝という感情と共に行くのですが、
わたしたちの本質は実はこの二極二元を超えたところにある、というのがプロトマニアの指す方向です。
でも、こういう生命に関することは、様々な角度で話し合ったり、考えたりしたいと思います。
ヴァーチャルなゲームの世界では、死んだ人物が生き返ってまた前進したりするので、
子どもたちは、叩かれたり身体を傷つけるとどのくらい痛いかわからなくなっているそうです。
むかし生まれた私には、その感覚の方が俄かに信じられないのですが。
そんな風に時代は確実に変わるけれど、変わらないものがあります。それが本質。
それを知りながら、この世界を生きることもできるのですね。
さて、桜の季節です。
願わくば 花の下にて 春散らん その如月の望月のころ
父が膵臓ガンで余命3か月とお医者に言われ、抗がん剤を使わずに過ごそうと私と決めた時、
この西行の歌を引きあいに出して笑っていたのを思い出します。
3か月どころかあっという間に逝ってしまいましたが、おそらく納得のいく最期だったと思います。
どんなひとのどんな最期も、優劣なく生命を全うするのですから、ありのままでよいのだと思います。
桜の花はいろいろな感情を喚起します。
桜が本当に美しいと思えるようになったのは、この数年でしょうか。
そんな感じ方ができる今、年齢を重ねることって悪くないなと思います。
