昨日の青空禅フォーラムでは、伊東先生から禅のお話を伺いました。
私たちは全てそのままで仏性である。
つまりお釈迦様と同じく、悟った状態なのである。
悟り、っていうのは、あるがままの本質を知りそれを味わっている状態。
白隠禅師は謡いました。
いろいろな修業が用意されているけれど、それをやらないと迷いのない境地に至らない、のではないよ、
あらゆることはただ禅定の中に包含されている。
禅定すなわち、座禅とは行為ではなく意識の在り方です、
することではなく、あること在り方なのだと伊東先生は解説してくださいました。
悟りっていう言葉以外に何か他にことばはないものかなぁと思うことがしばしばありました。
というのは、悟りって言うとなんだかとても特別な感じ。それを求めているとなると不思議ちゃんな感じもする。
愛とかワンネスとか神とか大いなる一とかとかとか?? 宗教っぽいし、ヒッピー?みたいだし、よくわからない。
言葉にはいろいろイメージがくっついている。
でも本来、特別でも何でもなく、私たちはすでにその悟りそのものらしい。
ただし、「そうか、すでに悟っているのだ」と思い出したからといって、
現実の生活が突然大成功したり、夢みたいなことが起こる訳でもないらしい。
中にはそういうドラマの主人公みたいな人もいるかもしれないけれど、悟りはいわゆるこの世の成功法則にはあたらないらしい。
では何が起こるのかというと、ただ単に、良くなろうが悪くなろうが、それが気にならなくなるらしい。
問題はそのままあるであろう、生きていれば病気にもなるだろう、そして究極の死もちゃんともれなくやって来る。
それでも区別なく無分別。
そう聴くとなんだかそれはとっても楽そうだと思う。自由そうだし、気持ち良さそうだと思う。
矛盾に苦しむこともなく、良いも悪いも、優劣、白黒を判断することもなく、
足りないことも余計もなく全てを包含して味わっている。
なんだか素晴らしく雄大広大無辺ではありませんか。
スーパーマンで一番になるよりも、そちらの方がよほどいい感じがしますよ。
高速道路を走りながらふと横を見ると、隣車線のトラックのボディーに
前後裁断!今を生きる!
と書いてありました。
― 余計なことは考えないことですよ~ - ってことですね。
