私は長年、気に入って聴き続けているCDが数枚あるのですが、
ある時、ふとそのCDジャケットをあらためて見てみるとタイトルが、
” Love ”
と
” Trust ”
きゃはは〜、恥ずかしい〜〜〜〜と思わず赤面して自分で笑ってしまいました。
インストルメンタルの曲だからただ単にそういうタイトルなだけで、
それっぽい歌詞がある訳ではないのですが…
ふと考える。
この「愛」とか「信頼」ということばを人間は大好きだし、私も大好きだけれど、
これほど様々な概念を纏ったことばは「神」と同じくらい、他にないだろうなと思います。
恥ずかしながら私はかつて「愛のひとになりた〜い」が私の中心にありました。
キリスト教の教育を受けた影響もあったと思いますが、
どうやって違いを越えて全てを受容したら良いのかを追い求め、
そのためには何よりも、愛を持って人間同士が信頼を築くことこそが大切だと思っていました。
求めていたんですね〜。
今の私の言い方で言えば、
分離なくすべてを受容して、エゴを越えて本質は一つであることに消え去りたい、という強い願望。
でも、いろいろやってみて迷惑をかけたり押し売りしたりその気になって調子に乗ったあげく痛い思いをして、
人間にとって愛や信頼は求めるものではなく、ただ見つけるものだと今は思います。
愛も信頼もハッピーもそれは元からそこいらじゅうに本当はあって、ただそれを見つけるだけで良いのだと思います。
ハッピーは求めれば求めるほど無理だ、と冷静な友達が言い切っていましたが、
究極的には見つけることすらなく、そうであることをただ味わっているだけ。
現代の空気は、全体に漠然とした不安感があって、誰かの強い意見や教えに支配されたくなるマゾ的な時代かもしれません。
ヨガの 望月 勇 さんの本にヨガと食事について書いた章があって,
人間の食べ方に正解はないということからこんなことが書いてありました。
…私は、現在、みんな漠然とした不安にかられて生活しているのだな、と思いました。
これらの話に共通しているのは、その不安からのがれたいために、みんななんらかの呪縛にかかっていることではないでしょうか。
つまり、みんなが健康という呪縛にかかり、健康食という呪縛にかかり、霊能者という呪縛にかかっているのではないかと、
そう思えてならないのです。
その呪縛から解き放たれるには、自分で考えなさい、そして自分で生きなさい、と言うしかないと思います。
食事に関しても、言われたことや、書かれたことを、ただうのみにするのではなくて、
自分に合っているかどうかをよく吟味して考えてみることです。
その結果、自分に合っていれば取り入れ、合っていなかったなら、それがどんなに権威のある人の提案でも、やめるべきです。
食事は楽しんで、そして健康になって、元気で長生きできればハッピーなわけで、それはそれでよいわけです。
「いのちのヨーガ」より抜粋
こういう文章に出会うと当たり前のようだけれど、わかったつもりで意外にわかっていないことにハッとします。
ひとのことは見ていてよく見えるけれど、自分のこととなるとわからなくなることって多いですね。
情報が多ければ多いほど、勉強すればするほど、いつの間にか思考停止になってしまうこともあります。
自分で確かめたことでもないのに、いつの間にか自分がそれそのものになってしまっていること。
まっさらで生まれた生命は、言語を覚えて世界を見た時から小さな私ができて、
時間という概念の中に閉じ込められ、緊張していきます。
概念や言葉にくっついたイメージの綾を一つずつ解いていくのは至難の業だけれど、
本当は寛いでいてたった今生まれて来たが如く、
愛と信頼の塊!
