聴くことはなかなかに難しい。
相手からの言葉を待つことができずに、根ほり葉ほりこちらから質問してしまうこともあるし、
自分の理解に収まるひとりよがりのストーリーに捻じ曲げてしまったりします。
「聴く」のは言葉を聴くというよりも、ことばにならない相手のそれをすっぽり聴くこと。
私は仕事で病院や老人健康施設と関わることがあって、
「ケアする人のケア」について考える、ということを知るチャンスがありました。
看護や介護をする人たちのそばには、生きていることの意味や死ぬことの意味、
本当に生きることが死ぬことよりも幸福なのか、人は本当に誰かを愛することができるのか、
といったある意味哲学的な問いが日常的にあると言います。
私は最近、母の世話をしていることからふと感じる、どうもよくわからない不思議な気持ちに気付きました。
鷲田清一さんの講演録を読んでこれかなと思ったのは、
ケアする人は、ケアすることで他人の「宛て先」になれると言えます。「聴く」という最も受け身に見える行動の中で、その人が苦しい言葉を漏らしてくれるのは、その人に関心を持っている他人として、その人のことが知りたいと思っている他人として、無条件に自分を認めてくれるということです。つまり、ケアするということは、ケアされる人の意識や言葉の「宛て先」として認められ、選び出されるということなのです。
条件なしでケアされるということがいちばんのケアだとすれば、そのときケアされる人にとっては、「私がいる」というただその事実だけで自分を「宛て先」にしてもらったという経験です。 すると、ケアされる人の側から、ケアする人の側に「宛て先」として送り返されるということが起こります。つまり、「この人だったら言いたい」「あなたに聴いてほしい」というカタチで、カウンセラーだからとかナースだからといった属性ではなく、私だから言葉を漏らしてくれるという、逆の贈り物をもうらような体験をすることができます。このような、ケアにおける反転という観点は、ケアではとても本質的なことです。
でもこれには良いことばかりではなく、一所懸命やっているのに気持ちが通じない、とか、どうしてわかってくれないのか、
というように相手がその思いを受け止めてくれないと、それが怒りや憎しみにまでなってしまうことがあると言います。
他者へのいたわりや優しさがそこにあるはずなのですが、思いも寄らぬ方向へ自分の感情や思考が走ってしまうこともある。
終末医療に長年関わった方が、出来ることは手を握ってそばに寄り添うこと、と言っていました。
聴いてもらうことは、言葉を受けてもらったという体験であり、語ることによって、自分に取り付いている不安の実態が何なのかを、聞き手の胸を借りながら探索しはじめるということです。(中略)不思議なことですが、見守ってもらっているということを確認することで、逆にその人に背を向けて一人になれる ——— そいうことが私たちにはしばしばあります。 (鷲田清一講演録より)
