笑う門には福来る

light

笑うことは大きなエネルギーの動きだと感じます。

ついさっきまでこの世の終わりくらいに落ち込んでいたり、言い争ってどうにもこうにもならない険悪なムードの時に、

突然、他愛もないことで思わず笑ってしまって、そこから力みやこわばりが解けて融けて、ハイおしまい、なんてこと、よくありますよね。

笑いについては昔から文学や哲学で取り上げられ、人間にとって大テーマのひとつでもあるのですね。

お釈迦様ではないけれど、生きること自体が苦であるというところからだったり、時代的に暗く貧しく抑圧されてそのはけ口としての笑いだったり。

そうして人間は世界の果てに出たいと思ったのかもしれません。 最近は「笑い」が健康促進や医療現場にも取り入れられています。

 

坂口安吾は「笑いはその場での超越だ」と言っていたそうです。

笑いは不合理を母胎にする。笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えをもつ。  然し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危うく、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが揶揄という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構え込んでいる点で、物言わぬ諷刺の対象がいつも勝を占めている。

正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶のうちにそっくり昇天させようというのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにし、笑いとばしてしまおうというわけである。

道化は昨日は笑っていない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いの他には何物もない。涙もないし、揶揄もないし、演技などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵もないのだ。ひそかに裏に諷しているしみったれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。

「なにもかも小林秀雄に教わった」木田元著 より抜粋

 

口角を上げて無理矢理でも笑っていると、だんだんそれがリアリティを増して行きます。

本当に可笑しくなっていつの間にか本気で笑っている。ヨガにもそんな練習があります。

あれが買えたら幸せ、あの人より先にこれが出来たら満足、お金がこれだけあれば自由、あの人が愛してくれたら安心…

と人間の求める条件や欲望はきりがありませんが、

青空禅フォーラムを主宰する I Medic & Art の伊東先生は、情報ではなくエネルギーを優先するように、とおっしゃっています。

実は A があるから B という順番ではなく、B は A がなくても起こる。

私たちはあれがないとこれは手に入らない、と思いがちで、あれにターゲットを絞っていつの間にやらきゅうきゅうとしてしまいがち。

でも本当は、眼に見える現実のカタチではなく、カタチを得た時の気分や感覚こそを求めている。

 

笑うとお腹のみならず全身を使って呼吸しています。肩凝りがほぐれます。何より笑顔は周りを和やかにします。

大の仲良しと喧嘩して ” 暗いトンネルの中 ” の時は、無理矢理してみる笑顔がけっこういいかも。

最初はちょっと引きつっていても、その引きつった笑顔に思わず吹き出して、仲直りできるかもしれないしね。