たとえば、いまここに一輪の花が咲いているとします。この花が花であること、つまり花の本性は、それ自体としては存在となんの関係もありません。こういう意味に解された花の本性を述語的には「本質」と言います。そしてもし、存在とは本来的に関係ない本質としての花が、それでも事実上いまここに存在しているとすれば、それは存在的エネルギーがどこか外から本質にたまたま生起してきたからである、とこういうふうに考えるのです。ですから、このような考え方によれば、存在とは本質にとって、ある不思議な偶成的な出来事なのです。で一体、存在はどこから生起してきて本質に宿り、本質を存在者に変貌させるのでしょうか。存在一性論者たちの存在論は存在についてのこの根源的問いから始まります。(井筒俊彦 著 イスラーム哲学の現像より抜粋)
私は井筒俊彦さんの本につい最近出会って、読み始めたばかりです。
本は読みすぎて文字や概念ばかりが頭に入ると頭の中が渋滞してしまうし、邪魔になることもあるけれど、
やはり確かに知識は助けになります。
ヨガをやる時に少し身体に関する知識があると感覚を掴みやすくわかり易く、
それが体感の支えになることがあり、これも大切にしたいと思います。
身の回りにある便利で新しい諸々は自分が主体になっていれば、
それを使えることがあっても、使われてしまうことはありません。
そしてアンテナに引っ掛かるものをとりあえずのぞいてみる好奇心も悪くはない。
狙いと方向を定めたら、まず中心を合わせてぶれない自己チュウで、
方便として気に入ったやり方を使っていけばいいのかなと思うのですがいかがでしょうか。
