プロトマニアの荒川陽子です。今日は、動物行動学者の日高敏隆さんの言葉。
何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。
そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。
一般の人は科学の目で、逆に科学者は一般の人の目でものを見ると、いつもとは別の見方が開けるだろう。誰にとってもものごとを相対化して見ることは必要だ。
普通、我々は、科学的な目とは、あるパターンの見方だと思っている。日常、人々はいちいち科学的なパターンでものを見ないから、正しくないようにいわれるがそんなことはない。
正しく見えることと、ほんとうに正しいかどうかは関係ない。そう見れば見えると言うだけの話だ。
中略
西欧はキリスト教という一神教を信じるが故に、絶対の神の法則を解き明かす科学が発達したという。
しかしぼくが学んだフランスは、西欧の一部ではあるが、西欧的になっていない人が、数少ないながらもいるところだった。
その意味でヨーロッパの知識層はすごいと思っている。生きる自信を宗教に頼らない層がちゃんとある。もちろんキリスト教に頼る一般の人々は非常に多いけれど。
そういう、西欧的でない人は絶えず悩みながら生きている。楽ではないから。でもそいういう人たちに出会ったときは、非常に嬉しかった。
彼らは物事を相対化して見るツールのひとつとして科学を使っている。科学が絶対と信じ、それを唯一のものの見方とする姿勢ではないのだ。
神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまで人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。
中略
どんなものの見方も相対化して考えてごらんなさい。科学もそのうちのひとつの見方として。
自分の精神のよって立つところに、いっさい、これは絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きて行くことになるのではないかとぼくは思う。
近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出て行く。
ならばその精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。
それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。
日高敏隆 著 『世界を、こんなふうに見てごらん』 宙(そら)に浮くすすめ P46~49 から抜粋 集英社文庫
諸行無常
諸法無我
お釈迦様がおっしゃったにもかかわらず、仏の教えを宗教にしてしまいましたねぇ~。
青空禅塾の集いが、むしろお釈迦様のサンガに近いのでは?と個人的には思います。
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そうですね〜(^ ^) 青空禅塾の前は、東京でも和サンガという名前で継続講座をやっていましたが、今はスタイルよりも集まる方たちによってその場の性質が出来上がるのを実感しています♪
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