母と私。

こんにちは、プロトマニアの荒川陽子です。今日は自分のことを呟いてみますね。

私は認知症の母のケアをしています。認知症は今でも「痴呆症」なんて呼ばれちゃうこともあって、何もかもわからなくなるコワ〜イびょうき、と思う方は多いかもしれません。新聞で読んだのですが、この「呆」という字は「赤ちゃんがおむつをした様子」を表しているんだそうです。あまり良くないイメージの文字になってしまった「呆」だけれどほのぼのした情景ですね。そういえば認知症は、生まれてこのかた背負ってきた荷物を降ろして、幼子に戻るような感じもします。

確かにいろいろ忘れてしまう、というよりもお医者曰く「新しい記憶がそもそも定着しない」ので混乱する、今まで普通にできていたことができなくなる、視野が狭くなる、感情の起伏が激しくなる・・・などなどの様子が見られます。

子である私にとっては、あの母が・・・と、変わりゆく姿に切なくなる時期もありました。快方に向かうわけではない日々のケアは心身ともにタイヘンです。でも、本人だって長い人生で体験したことのないことが次々に起こるのです。混乱して不安になるしイライラするし、悲しくなることだってあるでしょう。側にいる私も同じです。が、最終的には、それぞれに大変なんだもの、いろいろあってもなるべく穏やかでいましょうよ、と思うのです。プラスマイナス両方の感情とも無理はなく、どちらもあって良いと思うようになりました。

認知症を必要以上に怖れたり嘆いたりあらがったりするよりも、機能は経年劣化し、ニュートラルなゼロになってついには「枠」から解き放たれるのだ〜なんて想像してみるのも良いかもしれません。

人それぞれですが、私の母はわからないことが多いながら、実は変わらないその人が黙って私たちを観察していて、状況や心情がわかっているようです。自閉症の男の子が「僕は肉体に閉じ込められている」と言っていたのを思い出します。たとえものごとは忘れても、その時の印象は変わらず覚えている。人間存在はどんな時も尊く、瞬間ごとに精いっぱい生かされているということを目の前で見せてもらっている気がします。

さて、最後はふと思い出した智恵子抄から。

「あなたはだんだんきれいになる」

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修行によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。 

 

『智恵子抄(高村光太郎著/新潮文庫)』より