あっついですね〜〜。天気予報で「危険な暑さになるでしょう」と言っていましたが、そんな言い方、前からしていたかなぁ。
さて、そんな8月の中尾先生のアートレクチャー
は、日本人の洋画家を取り上げます。日本人が描く洋画は、画家の一生のドラマと合わせて知ると濃くて忘れ難く面白いですよ〜。
岸田劉生は、皆さんもご存知、麗子像を描いた画家。
《麗子微笑》 1921年 東京国立博物館蔵
このケープ、さわれそうにリアルです。
あのね、岸田劉生の「切り通しの坂」という絵がありまして、そこに描かれた坂は、東京・代々木にあるのです。私、そのすぐそばに住んでいたことがあって、この絵はかつてのここのことだと知った途端、その絵と劉生がぐっとリアル、私にとって現実になりました。単純だけど、そういうことがきっかけで興味を広げて行くのも悪くありません。さてさて、皆さんはどのあたりから入りますか?
それでは、先生のご案内文をぜひお読みくださいね〜〜
第63回《〜これまで誰も教えてくれなかった〜『絵画鑑賞白熱講座』》
日本の洋画を築いた巨人 岸田劉生
この講座の今年の目標のひとつに、日本の洋画家をとりあげるというのがありました。実は、昨年までにも黒田清輝、青木繁、中村彝など何人かの我が国を代表する洋画家を取り上げる機会がありましたが、あくまでも番外編という形で、その画家の代表作1、2点を重点的に鑑賞するというものでした。
8月のこの講座では、《麗子像》でみなさんにも馴染みの深い、大正期日本洋画界の巨星、岸田劉生のトータルな鑑賞に挑みたいと思います。
おりしも、8月31日から東京ステーションギャラリーで《没後90年記念 岸田劉生展》が始まります。この展覧会は劉生のエポックメーキングな作品の選定と制作年代順の展示により、彼の波乱万丈の人生と作風の相関を明らかにする意図があるようです。
岸田劉生の最大の特長は、黒田清輝がもたらした印象派の亜流に端を発し、フランス近代美術の後を追い続けてきた日本洋画の大きな流れにひとり敢然と棹をさし、天賦の描写力を武器に、純粋に自らの感覚と思考により導き出した「細密描写による写実」という様式により日本人の油彩画を追求したその独自性にあります。
しかし、岸田劉生の生涯には大きな謎も残されています。それは彼の晩年です。晩年と言っても、劉生は38歳で亡くなっているので決して年老いての晩年ではありません。
大正12年(1923年)に起こった関東大震災で湘南鵠沼の家が半壊し、彼は京都に逃げ出します。この時、劉生は32歳でした。それからの2年数ヶ月の京都滞在時代、劉生は度を越した骨董収集と芸者遊びに耽り、大酒に溺れます。そして、大正13年(1925年)になって生活の立て直しをはかって鎌倉に移転しますが、その後もかつての劉生に戻ること無く、一発逆転を期して臨んだ大連行きからの帰路、立ち寄った徳山市で未だ若い38年の人生に幕をおろします。
この一見腰砕けになってしまったかのような京都時代以降の劉生の作品が、今度の展覧会ではどのように扱われるのかも大変興味深いですね。
劉生は旺盛な制作活動の一方、数多くの文章も残しています。次回のこの講座はでは劉生が残した「内なる美」、「卑近の美」、「でろり」などのキーワードを紐解きながら鑑賞を進めていきたいと思います。
《道路と土手と塀(切通之図)》 1915年 東京国立近代美術館蔵
*中尾陽一主宰
8月25日(日)開催 第63回これまで誰も教えてくれなかった〜絵画鑑賞白熱講座
13時から15時30分まで(ティータイム休憩あり)
お申し込みは、こちらからどうぞ→