伊東先生と七夕の青空禅塾〜向うところなし

 

梅雨寒とは言いますが、なんだか涼し過ぎて7月であることを忘れてしまいそうです。

毎年、七夕の日の夜空はだいたい曇っているような気がします。先日の七夕の日曜日も雨降り。伊東先生の青空禅塾でしたが、青空禅には珍しくショボショボと霧雨の1日でした。

 

いつものように、しばらく瞑想してザワザワしたり外側に向いていた心持ちをゆったりとした呼吸で整えて静かにしてからスタート。今回は、瞑想が終わると「はい!」とすぐに参加者から手が挙がって、シェアから始まりました。

どんな日常のささやかなことでも、この青空禅塾に来た時は伊東先生に向けて思い切って話してみるといいんですよ。

先生とやりとりしているうちに、出来事の内容を吟味するよりも、それ自体の源とは何か?へと促されて行きます。

私たちは問題があるとつい内容や細部に意識が向かいますが、先生はシンプルに、それをかたまりで捉えて、さっと見切って、ハイおしまい、という練習をしてごらん、と促します。

伊東充隆@プロトマニア

だた、もちろんそれは言うほど簡単なことではないので、先生はひとまず、せっせと働き続ける思考が静かになるように、いろいろなジャンルの知識を使って思考を納得させてくれます。知性を使うのです。

そして知識で落ち着くとホッとしていい気分になるのですが、それだけではまたどこかで同じ迷路に迷い込みます。そこで次は体感や身体を巻き込んだ、易しくて、それならやってみよう〜と思うようなちょっとしたワークやコツを教えてくれますよ。そして、繰り返し練習することが大切、ということも忘れずにおっしゃいます。

・・・「でも時空はないんでしょ〜〜?だったら練習するようなものじゃないんじゃない?」というのは思考のヘリクツなので(笑)、浮かんだ思考はチラっと軽く横目で見るだけにして、さぁ実践実践。その方が断然お得です♡まずはホントにやってみよう〜

今回は、初参加の方も来てくださいました。とっても楽しい雰囲気ですっとその場に馴染んでお話をしてくれたり、いつも参加するみんながポンポン発言したりして、青空禅塾らしく穏やかながら、さらに幼子の無邪気さも加わって、なかなかに嬉しい楽しい青空禅塾でした。

純粋意識、真我、自己の本質は、伊東先生の青空禅塾では「青空」に例えられます。聞きなれない難解な専門用語を使って道筋を立てて考える哲学とは違って、聞き慣れた言葉のイメージを洗い落として、どんどん削って、思い込みを解除して、シンプルにシンプルに青空へと道案内されるのが青空禅塾。

先生の言葉のセンスは抜群なのでお話はいつもワクワクしますが、実は、言葉を追いかけてはだめ。先生の言葉の向こうにあるようなないような、形にならないものを先生は指しています。そう、先生が今回おっしゃった、禅で言う所の、

向かうところなし。

そこにこそ、くつろぎたいものです。

 

次回は、

8月4日(日)開催 第25回青空禅塾

今回は、塾の後に先生とお食事します。ぜひご一緒しましょう〜

お申し込みは、

こちらからどうぞ→

 

 


伊東先生と七夕の青空禅塾〜向うところなし」への3件のフィードバック

  1. 青空禅塾で教えていただいた、
    私はいる。私はいない。
    の両方を手放すワークは良かったです。
    確かに、
    私はいる。私はいない。
    は二元でのストーリーでしょうか?
    禅での、
    父母未生以前の一句
    に通じるものがあるのでしょうか?
    次回の青空禅塾で質問させていただきます。

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    1. はい、浮かんだ疑問はぜひ先生に問いかけみてくださいね〜。両手を広げて両方を手放した瞬間の感覚、体を巻き込んだその感覚、その一瞬を素振りしてみるのもよいかもしれませんね〜 ずっと続く(はずの)感覚を追い求めずに、ふと、ささやかに。

      いいね

  2. 向かうところなし。
    を最初、
    向かうところ敵なし。
    と読んでしまいました😅
    私はいない。
    のだから、どこに向かっても、敵はいない。
    あら、間違えてた!と後から気ずきました😅

    いいね: 1人

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