
ほぼ毎日、ほんの5分でも外に出て、近所の大きな公園を散歩をするのが私の朝の日課です。(5分は散歩と言えるのか?笑) 歩くと、その日の脚や肩周りの調子、寒さの感覚、目がとらえて見えるもの、耳に入って聞こえるもの、その日の自分の頭の中を渦巻く思考、胸のあたりの気分・・・青空禅的に言えばそんな「雲」たちに出会います。
今朝の雲は、
正しいか正しくないか?
をめぐる思考。「これって、いいの? それであってるの? その人はそれでいいの?」・・・この「是か非か」の二極の問いが私の長い間の無意識の癖でした。この問いを使って生きていると、なかなか苦しい目にあいます(笑)、経験者だからこれホント。
昨日、友だちから相談されたことについて歩きながら考察していたのですが、よく観察するとそこにこのジャッジの癖を発見。う〜ん、さりげなく何気ないところにそっと隠れているものだなぁ。
習慣というのは気づくまでは無意識にやっているんです。自分が何か判断をする時、意見を求められた時には、表現は違えど「それは正しいか?」で計っています。
ところが、そこから導き出された一見良さそうな答えでは、結局、平和にはなりません。なぜならば、絶対に正しいことなんて存在しないからです。正義は相対的でしかあり得ません。あるものを「正しい」と判断した途端、対極に「間違い」がもれなく付いて来ます。
だから、何かの現象を『正しいか正しくないか?』を基準に検討していくと、いつまでたっても対立するしかないのです。
でもそんな時、どちらもよし、という「これでいいのだ」バカボンのパパポイントを選ぶことができます。私のように是か非志向が強い人は、最初は慣性の法則で思わず正義の拳を振りかざしそうになりますが、少しずつ、バカボンのパパポイントを選ぶことができて来ますよ。
自分の癖にも気づかない時は、どっちが正しいか?を基準に思考がどんどん高速回転して、相手を責める方向へいくけれど、気づくことができるとその正義を掴みかけた思考は収束して行きます。不思議と穏やかで静か〜な心持ちになります。結果結論がどうであれ、何よりもとても楽になれます。負けたっていいんです。対立の無限の輪から抜けたんだもの。
バーソロミューは、それを「正しさを選びますか?愛を選びますか?」と問いました。
伊東先生に教わったのですが、「夜と霧」を書いたフランクル博士は、強制収容所の極限状態の中で「(なぜ私だけがこんな目に?と)神に問うのではなく、あなたが神から問われているのですよ」と外側に向いたベクトルを本質の方向に戻すように人々に説き、平安へ導いたそうです。
やって来る問題や出来事は自分の思い通りにはできないけれど、それをどうとらえるかは自分が選べる
・・ということは、青空禅で学んだ素晴らしい智慧の一つです。伊東先生が伝える青空と雲のお話もバーソロミューの言葉や禅の教えもヨガの態度も、いつかどこかでのお話ではなく、毎日のここ、この瞬間に生きていて、いつでもどこでもすぐ使えて、忘れたら思い出せばいいだけの優しく温かい道しるべです。
*何もないけけれど全てがあることの自由。何にも依存しない「在る」への道案内。
2月3日(日) 13時から17時(4時間)
お申し込みは、こちらからどうぞ→