険しい山道も恐れずに歩くことができるだろう〜ラマナ・マハルシ

 

われわれはアートマ(真我)の探求のために、「アートマはどこだ? それはどこにあるのか?」と言いながら駆けまわっている。ついにジニャーナ・ドリシュティ(知識の洞察力)に達し、「これがアートマだ。これこそが私だ」というそのときまで。われわれはその洞察力を得なければならない。ひとたびこの洞察に達すれば、世俗に交わってそのなかで活動しようとも、執着することはなくなるだろう。ひとたび靴をはけば、岩やいばらの多い道を歩いても痛みを感じることはない。険しい山道も恐れずに歩くことができるだろう。それと同じようにジニャーナ・ドリシュティに達した人にとっては全てが自然になる。自分自身の真我以外に何か存在するというのか?

『あるがままにーラマナ・マハルシの教え』デーヴィッド・ゴードマン 福間巌 第1部 真我  The Self  第2章 真我の自覚と無知 P61 より抜粋

久しぶりにラマナの本を開いたら、こんな一節でした。私にとってはラマナ・マハルシの言葉は、読んでもよくわからな〜い時期が長かったけど、これはすぅっと馴染んだ。

兄貴みたいな伊東先生の青空禅フォーラム、和サンガ、青空禅塾などに通いながら、決して、絶対に、どんなことがあっても変わらないものは何か?を求めて駆け回って来たなぁ。

プロトマニアもそんな中で生まれました。「私とは何か?」(自己の本質とは何か)を、思いっきり、おバカさんになって探って知るために。

・・・いろんなことがあって、いろいろな方との出会いや別れがあって、今に至る。先日ふと、

 

「峠の茶屋だ!」

 

と思ったのです。プロトマニアは、峠の茶屋だって。

ブラザー伊東先生の青空禅塾、プーさん中尾先生の絵画鑑賞講座、魔法使いkiico さんの植物との触れ合いを通した自分と向き合う時間、そしてこれまで開催したヨガや心身調和の講座、気功、空のお茶会・・・

それらはきっと、峠の茶屋みたいなものです。旅人がふと立ち寄って一休みするところ。ちょっと疲れた心身を休め、歩いて来た道を振り返り、茶屋に出入りする人々と情報交換したりおしゃべりして、先の道を見定め、温かい又は冷たいお茶を飲んでホッとしたら、また先へと歩く。探求の旅かもしれないし、シンプルに人生という旅かもしれないし、人それぞれに。

 

ずーっと平和で、平安で、幸せじゃなくたって、全然問題ない、大丈夫。

全てが自然。険しい山道も花咲く野原の真ん中も、恐れずに歩くことができるでしょう。

いろいろ大変なことがあったりなかったりの人生というストーリー。プロトマニアは峠の茶屋であればいいんだな。

もちろん、誰も彼も何もかもが、その時その時、峠の茶屋なんだけどね。

 

ラマナ・マハルシ 伊東充隆@プロトマニア

*真の自由とは。

伊東充隆主宰 第18回   青空禅塾  

2019年  1月6日(日) 13:00ー17:00

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