
10月三連休の日曜日は、伊東先生の青空禅塾、15回目でした。
この青空禅塾は「私とは何か?」を明らかにしたい人が集い、伊東先生のお話を聞いたり、先生と対話しながら、言葉や概念を超えた本質へと近づいて行きます。
自己の本質については、キリストからお釈迦様から、インドのラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、達磨さんや道元禅師に良寛さん、現代ならエックハルト・トールやらルパート・スパイラさんやら・・・・と私でも知っているさまざまな先人たちの言葉があります。言葉にならないことを伝えてくれる貴重な表現がいろいろあります。
でも、どれもこれも聞いたり読んだりしただけでは、正確に理解して芯にピントが合うのは難しい。なぜなら私たちはこれまで一所懸命に勉強して知識や体験を蓄積して基準を儲け、社会、世界という概念の中に馴染んできているからです。概念を超えた本質が腑に落ちるっていうこと自体が、なんだそりゃ?だったりします。
だから、まずは言葉や表現を道標に歩き始めますが、言葉は言葉に過ぎないので、伊東先生のような、先に明晰に全体を立体的に見ている人が道案内をしてくれる場が貴重なのだと感じます。伊東先生がこの日最初におっしゃったように、
実践しないと、知識は深い理解に至らない。
というほどに、知識と真の理解にはズレがあるのですね。
さてそこで青空禅塾、です。
理解したはずの知識を使って、先生に問う、対話する、ただなんとなく話してみる・・・そのことで、ズレたり、勘違いしていることを自覚できるのが青空禅塾。
今の自分の言葉で正直に話すことを、参加しているみんなで共有することで、予想外の発見があったり、理解が深まったりします。先生も「あ、それはいい質問をしてくれたねぇ」と、どんどん角度やジャンルを増やして伝えてくださるので、何かしら動いて雲が晴れたりします。(晴れることが答えじゃないとしてもね)
言葉にならなことを伝えている自己の本質、非二元、悟り・・・にありがちな、
・謎めかした、問いかけ
・思わせぶりの尻切れとんぼみたいな、表現
・わかったようなわからないような、説得
笑笑笑・・・ではなくて、伊東先生は、とーってもフツウに話してくれるのが、素晴らしいんです。誠実で親切だなぁと感じます。
だってね、例えばこの世界は二極の法則の中にあるので根元的に二極なのに、それと極のない本質の話を同じテーブルに乗せていたら、混乱するばかりなんです。私もずっとごちゃ混ぜにしていたから、わかったつもりの方向音痴がたくさんありましたよ。だから、それに気づけた時は、ビックリしてしばらく落ち込みました(苦笑)
そして、伊東先生という人物も聖人ではなく二極の中にあるから、例外なく常に変化しています。コンストラクタル法則によって常に変化し、瞬間、瞬間、一番新しい。「もうわかっちゃってますから」なんて先生は言いませんし、動かない重い石の仏像ではないの。軽やか。ただ変わらないのは、青空的在り方。本質に関してはブレがなくて、大地に根をはる大樹大岩の如し、です。
そんな先生だから、フツウの言葉を使って、曖昧さや誤解が生まれないような無駄のないシンプルな話し方をしてくれるんだと思います。
・・・あら、また長くなっちゃいましたね。今回は内容よりも、変わらぬ先生の在り方をお伝えしたかったのです。
伊東先生の飾らない人柄、豊富な知識、このことを求める人たちへの共感力、そして何よりも明晰さが、温かくて安心感に満ちて淀みのないスッキリした青空禅塾の土台を作ってくれているんだなぁと感じました。
次回は、
第16回 青空禅塾 11月4日(日) 13時から17時
ぜひご一緒に。