心をそれに向けるだけでじゅうぶんなのだ。

質問者

真我は心を超越し、しかもその実現は心によって為されると言われています。「心がそれを想うことはできない。心によってそれを考えることはできない。心だけがそれを実現できる」と。どうすればこの矛盾を解くことができるのでしょうか?

 

マハルシ

アートマンはムールタ・マナス(死んだ心)、つまり想念のない、内側に向かった心によって実現される。そのとき、心はそれ自身の源を見て真我となるのである。それは主体が客体を知覚するような状態ではない。

部屋のなかが暗いときは、照明と対象物を認識する目が必要となる。だが太陽を見るのにランプは必要ない。ただ振り向いて、自ら輝く太陽に目を向けるだけでいい。

それは心にとっても同じことだ。対象物を見るときは、心から反映された光が必要となる。ハートを見るには、心をそれに向けるだけでじゅうぶんなのだ。そうすれば心は消え失せ、ハートが輝きだすだろう。

心の本質は覚醒あるいは意識である。しかしながら、自我が心を支配するとき、それは理性、思考あるいは感覚機能として働く。自我によって限定されない普遍的心は、それ自体から分離していない。それゆえ、それはただ気づいている。これこそ聖書が「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉で意味するところのものである。

 

『あるがままに ー ラマナ・マハルシの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編 福間巌訳 ナチュラルスピリット社刊行 第二部 探究と明け渡し Enquiry and Surrender 第4章  真我探求ー理論 p92 より抜粋

 

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ラマナ・マハルシ

 

*シンプルに、シンプルに、シンプルに。

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