ホーリー、聖なるユーモリストたち。

 

「ま〜た先生同じこと言ってるわ〜、そんなのもう知ってるわよっ・・・なんて言わないで下さいよ〜 よく聴いてよ、ココ!大事なんだからねっ」

 

と伊東先生は言った。そして、みんな思わずワハハと笑った。

 

 

これ、このあいだの青空禅塾の中の1シーンです。

 

伊東先生の講義、お話は、量子物理のエッセンス、科学の法則やしくみのこと、禅のことば、心理学から哲学まで、さまざまな世界からの知識やエピソードが飛び出します。

 

人によってそれぞれ得手不得手があるから、あるお話が面白いこともあれば、なんだかよく分からない時もある。同じことがくり返し伝えられるから、もうわかってる、知ってる、とつい思ってしまって、先生の声は聞こえているけど、聴いていないことも多々ある。

 

先生は、そんな私たち参加者の傾向をよくよく知っているし、見抜いていて、ある時は先ほどのようにユーモアたっぷりで口まねしながらツッコミを入れてみたり、ある時は発言者の言葉を深追いしたり無理強いせずに、へぇ〜と身を乗り出して耳を傾けたり、目をつむってしばらく黙っています。それぞれにベストなタイミングでベストなことが起こっている、と知っているから、遠くから見ている感じ。

 

 

クリスマスが近づくと、”聖なるかな聖なるかな〜” なムードが街にも満ちて、ワクワクドキドキしますね。このキリスト意識、非二元、自己の本質とか禅の仏性というものは、聖なることばやイメージで語られ、綴られるけれど、私は最近思うんです。

 

真に自己の本質を信頼した人たちの言葉や佇まいは、イメージや概念を超えた親しみや思慮深さがあって、ユーモアがあって軽やかで自然で温かいんじゃないかなぁって。それをホーリーというのかもねって思います。聖なるものは厳かというのもイメージで。マハラジせんせいもバーソロミューもタクさんも、そして我らが伊東先生も温かい。

伊東先生が、フォーマルじゃなくてカジュアルなんですよ、って言ってたのもそんな感じかなぁ。あ、それもまた、私のイメージに過ぎませんけれど。在るのはただ、

 

廓然無聖。