質問:善いことをするとか、身なりをよくするとか、思いやりをもつとか、金持ちになるなどということはどうでもいいことだとなると、そうした関心をなくしたあとに、何が残るのでしょうか。
すべてはそこに残っています。ただ不安がなくなるだけです。葛藤がなくなります。そしてリラックスしているので、自分の美を感じ、自分の善を自覚し、人生に必要なものは何でもあるのだということがわかるようになります。
(バーソロミュー3 大いなる叡智が語る平和への祈り 体験と意識 P88より)
というのが、9月のお茶会の始まりの「バーソロミュー」からの言葉でした。事前に今日はここから読もうと決めずに、参加者のお一人がその場で本をパラっと開いたところから、読み始めました。
考えることをしないでただ経験しているとき、自分という存在の神秘とパワーとすばらしさを人は体験します。
記憶を引っ張り出してお話を紡ぐ『思考』の後にくっついて行かず、「それを考えているのは誰か?」「その考えは何処から来ているか?」と問う。すぐに言葉を紡がない。重要なのは答えではなく、問うことそのもの。間を作る。その思考が発生した0,1秒前は? ・・・何も無い。その何も無さが入口。
ワークショップの会場で静かにすわってこれを実行できても、人間の現象界で実際に生活していく場合にこれを実行できるとは限りません。ほとんどの場合、ここで体験したことを人は忘れてしまいます。
先生から聴いたこと、先生がいる場では理解できたし、実行できるけれど、ひとり日常の中に戻ると忘れちゃう〜。最初はみんなそうなのです。それでも諦めずに。
本当を言えば、人はつねにこれを実行しているのです。〈人生を生きる〉ということをしている〈自分〉というものがある、と人は思っています。でも、そうではありません。 ” 大いなる源 ” がすべてをつかさどっているのです。そして” 大いなる源 ” がすべてをつかさどっているのであれば、自分が何かをしているときに、同時に、” 大いなる源 ” の存在を感じて当然ではありませんか。” 大いなる源 ” が片方にあり、自分と自分の人生がもう一方にあって、この二つは別の者だという考えは、消し去るべき固定観念です。
いろいろやっていくうちに『花が花を見ている』ことに気づきます。思わず注意を向け、気になってつかんでしまう「感情・思考・気分」のレッテルをはがして、言葉の意味やイメージ、概念を外し、最後には大いなる源という言葉すら外した時に、ただ在って、すべてはそこに残っています。
「求めよ。さらば与えられん」「心を静めよ。さらば汝は知るだろう」
何も私は、むずかしくてつらいことをしなさいと言っているのではありません。わたしがお願いしているのは、すでに人々が実行していることなのです。そして体験の中にふくまれているものに気づいてほしいのです。
継続は力なり。自分なりに実際にやってみる。先生や本が教えてくれたことを自分で検証する。先生や専門のセラピストの方たちは、いつでも方向を差し示したり寄り添ってくれるから安心して検証しよう。
自分の権利を何としてでも主張したいと思ったなら、こう自問してください。「自分は一番になりたいのか。それとも” 大いなる一 ” でありたいのか。
でも、仕事ではムッとしちゃうこともあるもの。・・・ムッとしたら何が困りますか?と問い、問い、深く下へ潜ってみると、いったいその抵抗は自分のどんな信念や固定観念から発生しているかが見えて来た。それが見えたらちょっとほっとします。その信念や思い込みすら、可愛く感謝したくなったりもします。
9月の空のお茶会は、ザ・空のお茶会。(そのもの〜〜♪)
先生から教わったことをやっているけど、こんなところが相変わらずなの〜、と誰かが話し始めれば、みんなで話す。溝口あゆかさん、伊東充隆先生、バイロン・ケイティー、ルパート・スパイラ、トニー・パーソンズ、タクさん、瞑想あれこれ、ボディワークなどなど・・・いろんな知恵や角度。そのうちに最初の本人が、知らず知らず自分で答えを言っていました〜♪
お互いに知っていることを使ったり、知恵を出し合って、話が行き止まりな感じになっても、専門家じゃないからそれ以上はわからなくてごめんなさいね〜と言う。その暖かさと無理の無さ。そして正解をつかもうとしない、つかめない素晴らしさ。ふくふくしていいお茶会でした。
空のお茶会は先生がいないけれど、すべてがメッセージで先生。
自問自答の真髄は、実はこれなのかな。
今日のオヤツは人数が少なかったから、スペシャルシュークリームでした。案の定食べてしまって写真はありません。何は無くともおいしいオヤツとお茶でリラックス。一休み一休み。