人間が苦しむ理由。インドの哲学書ヴェーダンタの中にそれが書いてあります。
そのひとつ。
私たちが、自分が何か? を知らないこと。
不安に思ったり、苦しんだりする私たち。私、私、って言うけれどそれはいったい何を指しているのか?・・・あらためて考えてみると、
実は何も分かっていません。
それをわからないまま、わかるものにばかり目を奪われています。
私って、わかっていますよ、もちろん自分のことでしょう? 自分個人のことを「私」と言って生きていますから。
・・・それは本当ですか?
ところで「自分」って何かというと、丁寧に見てみれば、心と身体に条件づけられたものを指しています。目を奪われているもの、わかっているもの、わかっている自分とは、この思考、気分、感情、記憶、イメージ、国籍や性別など。
普段、私たちはこの「自分」が「私」だと当然のように信じて生きています。同一化しているってことですね。
じゃあ、もう一度。ほんとうに、
私 = 自分
なのかな? これを検証してみます。
私は、思考だ、感情だ、記憶だ、身体だ・・・
さらに、
私は、真我だ。
私は、無だ。
私は、神だ。
・・・・
無意識に思っていたり、学んだ情報で思い込んでイコールにしているものだけで、こんなにあります。
ところが思考も、真我も、無、も、言ってみれば概念です。実体はありません。
私 = 自分。
私たちが普段から当り前だと思っているこれを疑ってみて、その信念を解いていくのはそれほど簡単ではありませんね。
もし「私」が何か? が分かった!と思っても、私は〜だ、ということが分かる、つまり実はそれはまた何かと = イコールにしているんですね。
わかった! と思った瞬間、何かにイコール。すなわち、実体はなく、不変の本質ではないということ。
ということは「私」が何か? を直接見ること、知ることは、できないのですね。
まずは、何ではないか、だけを見てみましょう。引き算です。
・・・・・といったことを、伊東先生はお話します。
もう知っているつもりでいることも、丁寧に見て聴いていると、おや?という発見があったりします。これまでいろいろな本を読んだり、お話を聴いて来た方でもきっと、盲点に出会えるかもしれません。
盲点は、ひとりでは見えないのよね〜
* 言葉ではない。不立文字の「自己の本質」とは・・・
伊東充隆主宰 第2回青空禅塾
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