あるがままに

 

ちょっと久しぶりに、ラマナ・マハルシの「あるがままに」を読んでいます。

 

私はアートを先生にして真理を探究していました。この世界の本質は何か、絶対的なものは何かを知りたいと思っていたのです。

人生の不惑を過ぎた頃に伊東先生と出会い、このラマナという人を知りました。吸い込まれてしまいそうな澄んだ眼差しと穏やかな笑顔。でも裸だし。でも読んでも読んでも、何を言っているかわからないし(笑)。

 

不思議なこの10年・・・

 

昨日、ちょっとだけ寂しいことが起きて、やっぱりこの世界には「ずーっと」はないんだなぁとションボリしました。10年前にも、

 

「ずーっと、変わらないものは、何? 」

 

と問い、寂しいことも、悶々モヤモヤ、不安なこともありました。でも今は、寂しいけれど前とは何かが違うなぁと感じます。

 

 

 

質問者

もし真我そのものが気づいているのなら、なぜ私は今でさえそれに気づかないのでしょうか?

 

マハルシ

そこに二元性はない。現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。相対的な知識は主体と客体を必要とする。それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない、

覚えることも同じように相対的なもので、覚えられるべき客体と覚える主体を必要とする。そこに二元性がないとき、誰が誰を覚えるというのだろう?

真我は永遠に存在している。誰もが真我を知りたいと望んでいる。自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう? 人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。だが真我は永遠不変に存在しつづける。彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。どうしてそうありえよう?真我は光ではなく、暗闇でもない。それはただあるがままに在る。それを定義することはできない。もっともふさわしい定義は、「私は私であるものである」( I AM THAT I AM )だ。シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大なもの、最微小より微小なものと記している。それらには何の事実的根拠もない。それはただ存在なのだ。だが実在や非実在とは異なる。それは知識だ。だが知識や無知とは異なる。いったいどうやってそれを定義できるというのだろう?それはただ存在なのである。

 

質問者

真我を実現すると、人は何を見るのでしょうか?

 

マハルシ

そこに見るということはない。見るということは、ただ在るということだ。われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、どこか遠い目的地に達することでもない、それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものとして、ただ在ることである。あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。ただこの習慣を放棄するだけでいい。そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。言い換えれば「真我として在りなさい」ということである。あまりにも明白な真我を発見しようと努力しているあなたを笑うときが、いつかやってくるだろう。だから、この質問に対していったいなにが言えるというのだろう?

その境地は見る者もいられるものも超越する。そこには何かを見ている見る者がいない。これらすべてを今見ている見る者が存在を消し、そしてただ真我だけが残るのである。

 

『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』 第一章 真我の本性 P21~ から抜粋

 

 

 

* ” 私  ” は何処に在るのか、決して変わらないものへの入口

 

伊東充隆主宰  青空禅塾 

 

8月6日(日) 13時から17時

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