芸術は気づきを喚起する

 

セザンヌは、形はないけれど常にここにある体験の現実を、ぎりぎりのところで形として救い上げた作品を残しました。それは、パルメニデス、ルーミー、クリシュナメノンなどが言葉で表したものと同じです。

 

芸術家のやり方は知覚を通じてのものであり、哲学者は思考を通じて、帰依者は愛を通じて同じことをします。

 

セザンヌは、「一本のニンジン、新たに観察されたニンジンが革命を起こす、その時がやってきている」と言いました。

 

ありふれたつまらないものであっても、そのものの中心、つまり、その体験の中心に触れることで、これまでに見たことのないものを発見し、この発見が、自己、他者、世界についての見方を変換する、とセザンヌは言ったのです。この真の革命の前では、他のいかなる革命も意味を持ちません。

 

芸術家は、この気づきを表現し、喚起する何か、つまり、観た者を直接この体験的理解に導くような何かをつくり出そうとします。芸術家は、革命の引き金を引こうとするのです。

 

芸術家は、その現実を喚起する体験のビジョンを改めて現出させようと、観る者をその現実に引き込む力を込めた作品をつくり出そうと試みるのです。

 

フランス人画家、ピエール・ボナールがつかもうとしていたこともこれと同じです。ボナールは、思考が世界を、知覚する主体と知覚される客体、そしてこの客体を「数限りない物事」に分割する前の、時間を超えた知覚の瞬間をつかもうとしました。

 

ボナールにはそのビジョンはどのように見えたのでしょう? 彼が見たのは、色彩に溢れ、濃密で、調和した、活力とともに踊る世界でした。彼の世界では、バスタブの縁や古びた床板にも、頬の曲線や手の表情と同じだけの注意が払われました。同じだけの愛が注がれたのです。

 

中略

 

 

芸術家の体と心(マインド)は、自然が、それ自体をそれ自体へと翻訳するための媒体です。自然が、それ自体のアイデンティティを探し、現実化するための媒体なのです。このことをセザンヌは次のように表現しました。「私は景色の主観的意識になり、そして、私の絵はその客観的意識になる」と。

 

 

『プレザンス 安らぎと幸福の技術』 ルパート・スパイラ著 Part 5 自然の鏡 P213〜より抜粋

真の芸術には、突抜け、溶解させる性質があり、それは、視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚、といった知覚の見かけ上の要素を導引して、よくある二元的な見方が純粋体験へと崩壊するのを早めるのです。