” 問題は私たちが向ける注意からできているのです。”

 

スクリーンが全ての映像に浸透するように、私たちの自己はすべての体験に浸透します。ですが実際のところ、スクリーンは映像に浸透しません。スクリーンがなければ、そこには映像もないのです。

 

「映像」は、スクリーンがそれ以外の何かに見えたとき、それに与えられる名前です。これと同じで、「部分」、「分離」、「個人」、「対象物」、「他者」は、体験が、私たちの自己、気づいている現存(プレザンス)、純粋な親密さ以外の何かであるように見えたとき、それに与えられる名前です。

 

私たちの真の自己にはそのような分離は見えませんから、分離の感覚を取り除きたいとも思いません。問題を見て、それを取り除きたいと考えるのは誰でしょう?それは架空の自己です。

 

中庸の状態を解決されるべき問題へと変えるのは、架空の自己という見せかけの現存(プレザンス)です。

 

存在しない問題に対応することなど不可能です。対応することで、私たちはそれを現実として受け止めます。問題は、私たちが注意を向けることによって育ちます。実際、問題は私たちが向ける注意からできているのです。

 

存在するものに抵抗し、存在しないものを求めることがなくなると、つまり分離した自己という活動がなくなると、つなぎ目のない要素として現状はシンプルに存在し、体や心(マインド)に必要とされることは何であれ、全体のための全体によって調整されるようになります。

 

緊急事態があれば、体や心(マインド)はエネルギーを使って対応しなければならないでしょう。しかし、そこに架空の自己はいないので、結果、これまで体験がそれを通して見られていた分離という歪んだレンズを用いて対応することはなくなります。

 

こうした状況では、体と心(マインド)はその状況で果たすべき役割を果たし、必要とされることは何であれ、効率よく、正確に行います。緊急事態が過ぎ去れば、体と心(マインド)はいかなる余韻や痕跡も残さずに、開かれた、透明で、リラックスした自然の状態に戻ります。

 

こうして体と心(マインド)は、分離という感覚の逃げ場にならず、その自然な繊細さは無傷のままに保たれます。

 

同じように、世界もまた、遠く離れ、分離した、不活性の対象物であることをやめます。世界は振動し、活力に満ち、親密で、私たちの活動は常にそれと軌を一にします。なぜなら、私たちの活動は世界の内部で発生し、架空の外部から押しつけられてはいないからです。

 

ルパート・スパイラ著「プレザンス 安らぎと幸福の技術」第1巻
Part 6 体験 問題はない P279 より抜粋

 

 

 

*自己の本質を知り、意識の軸を変容する〜

伊東充隆主宰  青空禅フォーラム  Tokyo

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