マハラジ
まったくそのとおりだ。真の探究はつねに何かのなかへであって、何かから外へではない。私がいかにして何かを得るか、あるいは避けるかを探究するときは、本当に探究しているとは言えない。何かを知るためには、完全にそれを受け入れなければならないのだ。
質問者
そうです。神を知るには神を受け入れなければなりません。何と恐ろしいことでしょう!
マハラジ
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。それはもっと恐ろしいことでさえある。自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。助けとなるのは沈黙だ。完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。あなた自身を描写してはならない。あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。「これは私ではない。私は誰か?」が自己探究の動きなのだ。解放へのほかの手段というものはない。すべての手段は延期を意味するのだ。あなたでないものを断固として拒絶しなさい。真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。それは、「何ものでもないもの」なのだ。
『私は在る』ニサルガダッタ・マハラジ 「理解は解放へと導く」P545 より
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