純粋な存在は描写できない

マハラジ

質問者

日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているのでしょうか。

 

マハラジ

意識もしなければ、無意識でもない。私には信念は必要ない。私は勇気を生きる。生命の愛である勇気が私の本質だ。私には記憶や不安がない。私が何であるか、あるいは何でないかということには無関心だ。自己描写にふけったりもしない。「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラフマースミ」(我は至高なるものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。私には無として在る勇気がある。そして世界をあるがままに、無として見るのだ。シンプルに聞こえるだろう?試してみなさい!

 

質問者

しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?

 

マハラジ

あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。勇気は与えられる必要のあるものだろうか?あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。それは反対なのだ。不安と期待は想像から生まれる。私はその両方から自由だ。私はシンプルな存在だ。何に依りかかる必要もないのだ。

あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるというのだろう? あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。

在ることは、知ることとして輝く。愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。それはみなひとつだ。あなたは分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。公式に関わり過ぎてはならない。純粋な存在は描写できないものなのだ。

 

 

『  I AM THAT   私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話  』

はじまりなきものは永遠にはじまる より抜粋