空の向こうになにみてるの?と最後に尋ねたあの人は、
漸く確かにあると知ったはずの、その温度ある平和でも、まだ足りなかったのか?
勝手に幼稚な思考を巡らせ、感傷的にその痛みに思いを馳せた。
今日、空を見上げて、嗚呼! と分かった。
あの人はあの時、幸福を確信したことに自ら気づいたのだ。
それ以上でもそれ以下でもない、未来も過去もない、瞬間の中で。
だからもう、それ以上求めるものはなく、語るものもなく、
あるのはただ「そのまま」。
そしてドラマの終焉。
幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不幸になるに違いないと信じることになるだろう。マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。それゆえ人は、幸福になろうと駆り立てられる必要は無いのだと確信することが必要なのだ。その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければならないという偽りの確信を単に増長するだけなのだ。
しかし、幸福についてなぜ話さなければならないのか?
不幸である時以外、幸福について話したりはしない。「私は今幸せです」という人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるのだ。この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。
真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったところはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。
『 I AM THAT 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話 』より抜粋