摩訶般若

秋の記憶。

楽しいこと、切ないこと、嬉しいこと、痛かったこと…

それは記憶であって、今は何もない。

純粋すらない、源の純粋意識。

 

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私どもは毎日新しいものを食べ、新しい空気を吸い、新しい水を飲みます。

毎日新しいものを取り入れて、古い不用なものを排泄し、新陳代謝をし、

水の如くに流れていく。その流れていくのが、お互いの血液であり、

お互いの肉体でありますが、これは休みなしに流れておる。

それならば、毎日新しいことを考えて、すんだならばいらんことはサッサと流して、

後に何も残さないというのが、お互いの健全な意識というものではなくてはならないでしょう。

そこに子供の時分に教え込まれた、「これが私」「これが花子」ということが

焼き印のように押しつけられておって、どうしてもそれから離れることができない。

寝ておっても、名前を呼ばれればすぐに目を覚ましてしまう。それほどまでに、

私どもは自我という、生まれ出てから教えられた意識にこだわってしまって、

身動きのできん今日のお互いになってしまっておるのであります。

しかし、健全な意識はそういう滞るものが何もなしに、サラサラと流れ、

いつも新しい新鮮な意識で日暮らしができることが私ども健康な意識でなくては

なりません。それが般若の智慧であります。

鏡はどんな小さなものでも、富士山のような大きなものでも映すことができます。

何で富士山のようなものが鏡の中に入るのか。何で太平洋が鏡の中に映ってしまうのか。

このアズキよりも小さな瞳孔を通して、私どもの意識に入る。太平洋が入る。

空を見上げるならば、二千万あるといわれる星が、皆な私の小さな目の中に入って

しまう。摩訶般若であります。何もかも入れる余地がある。

 

『般若心経』第一講 山田無文著 禅文化研究所  発行 より抜粋