
めまぐるしく変わる空模様とともに、世の中はちょっと荒れ気味です。
戦後70年のこの夏に、戦争に巻き込まれる可能性に満ちた法案が、
あれよあれよという間に成立してしまいました。
「国民の理解を」と言うあなただって、他でもない国民であって、
「わたしたちの理解を」と言い替えたら、
世界の見え方が変わるんじゃないかなぁとぼんやり考えます。
2000年代の初めにイラクへ米国が侵攻し、
その時、有事、日本が戦争に参加する可能性が高まる法案を与党が通そうとしていました。
そして、世間ではそれに反対する大きな抗議行動がありました。
私もその時に、代々木公園を出発点に行進するデモにひとりで参加しました。
その時のパートナーにはとてもビックリされましたが、
反対の気持ちを目に見えるカタチにすることが、私の精一杯だったのだと思います。
結果は、大量破壊兵器を持っている(かもしれなかった)イラクを米国と英国が攻撃し、
フセイン政権が崩壊しました。
劣化ウラン弾がたくさん使われて、イラクの子どもたちだけでなく、
米国兵士もまた、長い間その被害に苦しめられる結果となりました。
今朝、ある方のブログを読んで、共感しました。
まず自分から始める平和、とありました。
マザー・テレサの言葉もありました。
「私は反戦運動には参加しません。でも、平和運動には喜んで参加しますよ」
反戦と平和。
イコールのようでイコールではない。
ことば遊びではありませんよ。
目に見えないけれど、言葉が孕んでいるエネルギーはまったく違います。
戦争ハンターイ! とデモに参加することも一つの選択でした。
今のわたしは、他の選択肢も知っています。
自分の内を平安にするという選択。(もちろん、外の世界に無関心でいることではありません)
大きな行動をする前にとても身近な自分から始めます。
簡単そうに聞こえますか?
平安、平和を選ぶ、とは、言うほど、聞くほど、たやすいことではありません。
ささやかな心の平和ですら。
やってみるとわかります。
相手を批判する、責める、支配しようとする、優位に立とうする、…
普通、人間はそんな闘いを心の中でしきりとやっています。
それは信仰や罰則をもって抑制してもしきれない。抑制は根本解決ではありませんし。
平和を願う気持ちを持っていて、では自分は何をすればいいのだろう?
ジャンヌダルクの正義の物語ではありません。
いますぐここで出来ることは、ひと呼吸で「間」をあける、無心の一呼吸です。
戦争も平和も、善も悪も、光も影も、すべてがただ在り、何もない、言葉を超えた虚空。
何もせずじっとしているように見えて、凄いエネルギーが動いている、のかもしれない。
ちょうど、祈りのすがたのように。