
ヨガ先生を熱くやっていた頃、
レッスンごとに、プリントを作っていました。
その日のポーズの動きを分解して絵を描いて解説したり、
身体のしくみや呼吸やがもたらす効果を文章にしていました。
頭と身体感覚と、両方で理解して習得するのが、自分が学んだ時にわかりやすかったからです。
身体の感覚だけではつかめないところを、
知識という情報で理解しイメージしてから動かすと、できちゃったりする。
なんとか筋を外側に使って、とか、肩甲骨を寄せて、とか言いながら、確認しながら。
すると「論理があるとわかり易い」と言われて、
やはり大人は、こうだからこうなる、と筋が通っていると納得できる、
分かりながらやるのがいいのだろう、と感じました。
私の先生は、肚(はら)をさして、
「昔の人間はこれが ” 腹筋 ” なんて知らなかったんだから」とおっしゃって、
あまり細部や情報にとらわれないように、
つまり、アタマでばかりやらないように導いて下さいました。
分かる、って快感なんですよね~
あ、わかった!と思えると、落ち着くのです。
実際は身体はついて来ていなくても、できました~!と思ってしまいます。
(とはいえ、束の間なので、やっぱり出来ていないことは後からわかるのですが。)
真理の探究も似ていて、タバコ屋のおじさんニサルガダッタ・マハラジのように、
ひたすら先生に言われたことだけやっていたら、そうなっちゃった、
というすばらしい覚者もいますが、
あれやったりこれやったり、量子物理だ、禅のことばだと読んだり、聞いたりしても、
分からないよ~~~~
というのが続くと、ちょっと分かる快感の誘惑にかられることあり。
何ごとも科学的、論理的に証明されると納得信用できる、という傾向にありますが、
実はは昔からわかっていることを、現代人は技術や知識や研究で、
ほらねって証明して安心しているのかもしれませんね。
すっきり分かりたい、というその一心で。
太古の昔の人がそんな私たちを見たら、笑っちゃったりしてね。
そんな現代人だから、好きなだけたっぷりお勉強したら、
後は、肚に落とさなきゃね。
智慧、にしなきゃね。
は〜い。