
たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしはやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちが知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなになった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔を合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
コリント人への第一の手紙 第13章
先週土曜日の青空禅フォーラムの伊東先生のお話は「幼な子のごとく見る」から始まりました。
時空の中にポツンいるワタシ、という世界観のままでは、私たちの本質を知ることはむずかしい。
本当のワタシ、は、三次元宇宙空間にいたことは一度もないのだ…
ビックリするでしょう?
当たり前と思い込んだ信念を揺るがし、混乱させる(苦笑)先生のお話。
いずれ思考ではついていけないところへと向かうのですが、
何度も聴いて、少しずつ世界観が入れ替わって行きます。
自己の本質、真我、は見ることも知ることも触ることも感じることもできないけれど、
そこへもどることは神秘。
コリント人への手紙を久しぶりに読みました。
この中の「愛」を「真我」と読んだら、まったく違う光景が広がりました。