
相手がこのようにささやいてくれることを、わたしたちはみな知っているはずです。
なぜなら、自分自身が愛を感じる、まさに啓示を受けるときのような瞬間、
まさにこのように相手を見るからです。
誰であれ、どんな立場であれ、自分の人生に現れる人物は、例外なく、愛を差し出してくれるためにやってきています。
あらゆる人間関係は、愛を示し合うためにあります。そして相手を、孤独な戦場から救い出すためにあります。
生きるということは闘いではないということを、共にわかり合うために。
ふたりが心を開き、愛を受け入れるなら、孤立ではなく、手をとり合うことを選ぶなら、戦いをやめ、
平和の中に生きることができるということを知るために、わたしたちは出会うのです。
それはつまり、わたしたちは、どんなに歯を食いしばって闘っていても、
ひとりではけっして自分の傲慢さに気づかないということであるし、
本当に安心して目を見開かなければ相手の本当の姿は見えないということであるし、
また、相手の本当の姿を知ることで、はじめて安心と喜びを経験できるということでもあります。
わたしたちは、ひとりでは目覚めることはできません。
けれども、誰かが起こしてくれます。いったい、誰がいればいいのでしょう。
誰でもいいのです。たった今、目の前にいるその人が、今の自分を、苦しい傲慢な夢から、
やさしい手で、揺り起こしてくれる人なのだから。
そして、目覚めたなら、わたしは愛しているのに、あなたは愛をみせてくれない、
わたしはあなたのために尽くしているのに、あなたはわたしに応えてくれない、などど、
相手の非をあげつらったり、自分の不幸を相手のせいにしたりしてきたドラマの一部始終が、
夢にすぎなかったこと、その夢を紡いでいた自分の傲慢さや、ごまかしや、ずるさ、臆病さが、
自分という存在の現実ではなかったことに、いまだかつてなかった安堵感を覚えるのです。
相手の言動に愛ではないものを見るのは、愛から目をそらす目的で、
自ら眠り込んで自分勝手に紡いだ夢にすぎません。
その気づきは、全身がかあっと熱くなるような、または、逆にすうっと背中が凍りつくような、
激しいけいれんを伴う覚醒かもしれませんが、その直後にもたらされる感覚には何か、
永遠と呼びたくなる揺るぎのなさがあります。
愛を経験するとは、愛を怖がらなくてもいいと知ること、愛だけが自分を守ると実感すること、
愛を受け取る勇気を育てること、そして愛の中でくつろぐことを学ぶことです。
それは、こんなふうにも言えるでしょう。
わたしたちは、お互いを愛するのではない。
共に愛されて在る喜びを分かち合っている。
Guide to A Course in Miracles Workbook より