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何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、
そのことを知っていることが大事だと思う。
そのことをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。
一般の人は科学の目で、逆に科学者は一の人の目でものを見ると、いつもと別の見方ができるだろう。
誰にとってもものごとを相対化して見ることは必要だ。
普通、我々は、科学的な目とは、あるパターンのものの見方だと思っている。日常、人々はいちいち科学的なパターンで
ものを見ないから、正しくないように言われるがそんなことはない。
正しく見えることと、ほんとうに正しいかは関係ない。そう見れば見えるというだけの話だ。
まだ若手の研究者だったころから、ずいぶんそういう議論をしてきた。
相手は自分たちを進歩的だと思っている科学者の会だったりしたから、その人たちにはきっとどうしようもない人間だと思われて
いただろう。
しかしぼくは、科学もひとつのものの見方にすぎないと教えてくれるいくつかの書物に早く出会えて、
ほんとうによかったと思っている。
おかげで科学によって正しい世界が見えると信じ込む人間にならずにすんだ。
西欧はキリスト教という一神教を信じるがゆえに、絶対の神の法則を解き明かす科学が発展したという。
しかしぼくの学んだフランスは、西欧の一部ではあるが、西欧的になっていない人が数少ないながらもいるところだった。
その意味でヨーロッパの知識層はすごいと思っている。生きる自信を宗教に頼らない層がちゃんとある。
もちろんキリスト教に頼る一般の人々は非常に多いけれど。
そういう西欧的でない人は絶えず悩みながら生きている。楽ではないから。
でもそういう人たちに出会った時は、非常にうれしかった。
彼らはものごとを相対化して見るツールのひとつとして科学を使っている。科学が絶対と信じ、それを唯一のものの見方とする
姿勢ではないのだ。
神ではあれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、
これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。
頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。
でも引きこもりやカルト、無差別殺人といったさまざまな現代の問題には、どれも自分の精神のよって立つところを求めて、
暗い洞窟に入り込んでいった様子が見える。
どんな物の見方も相対化して考えてごらんなさい。科学もそのうちのひとつの見方として。
自分の精神のよって立つところに、いっさい、これは絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、
もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるのではないかとぼくは思う。
近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出て行く。
ならば精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。
それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。
日高敏隆 著
『 世界を、こんなふうに見てごらん 』~ 宙(そら)に浮くすすめ~ より抜粋