対話する

J’adore chokolat

朝のテレビドラマ。

夜の屋台のおうどん屋さんで、お義姉さんに苛められた主人公が泣き泣き夫にそれを訴えているシーン。

意地悪なお義姉さんは、主人公の荷物をまとめて大八車に載せ、主人公を家からポイと追い出したらしい。

夫は話を聴き終わると、ちょっとうつむいて、クスっと笑う。

主人公は自分のあったひどい仕打ちを訴えているのになぜ笑うの?とふくれる。

すると夫は、

「お姉さん、これだけの荷物をひとりで積んで運んだんやろ? 大したイケズやな  と思って…」

そこで場面は空想シーン。

お姉さんが口元をキッと結んで、身体を前につんのめらせながら山のような荷物を積んだ荷車を引いていく姿。

(お義姉さんのそれそこまでの労力を考えると、イケズパワーはもの凄い。)

主人公もその言葉を聞いてその姿を空想し、思わず「 大したイケズやな… 」とつぶやいてふっと表情が緩む。

 

たまたまそのシーンを見たのですが、へぇ面白いなあと思いました。

夫は、相手の話の中にどっぷり入りこまずに、全然違う視点をポーンと投げ込んでやる。

それも相手をどうにかしようとして作為的にしているのではなく。

それはきみ、こうだよ、と解釈するのではなく意見をいうのでもなく、

そこに自分が入っていっている感じ。

 

情報ではなくその背後にあるエネルギーを見るということを

伊東充隆先生がよく話されますが、

言葉になったところだけを見るのではなくて、その言葉以前を感じ取り、

さらにそれだけではなくて、ここは人間の言葉にして相手に返す。

それだけでも、目に見えている現象をあれこれ突きまわす回り道をせずにすみます。

でもさらにそのエネルギーのもっと奥にあるもの、言葉にとらわれずにその根源にいたら、

対話は自分との対話のように思えてきます。

誰かの話を聴くというのは、自分との対話みたいなものなのかもしれません。

 

私の中で私がやっているかのような。